風の通る道 by mamaneko

人や音楽や本は、出合うべきときに出会うね。本当に不思議だけれど。風のように、波のように。風の通る道。そんな話を少しずつ。

いい音楽とは「歌い継がれていく音楽」なんだね。ベルウッド・レコード50周年記念コンサート

 

昨夜の「ベルウッド・レコード50周年記念コンサート」を観ていて、思い出したのが、映画「エコー・イン・ザ・キャニオン」だった。

この映画の舞台は、60年代~70年代にかけて、数多くの若き(当時)ミュージシャンたちが暮らし、お互いに刺激しあって、ウェストコースト・ロックというジャンルをつくりあげた伝説の場所「ローレル・キャニオン」。

ボブ・ディランの息子、ジェイコブ・ディランがホスト役となり、この偉大な時代をつくってきたミュージシャンにインタビューしたり、ジェイコブと同世代のミュージシャンたちによって、数々の名曲を歌う…などしていた。

 

昨日のコンサートでは、高田渡さんの息子さんである高田漣さんがホスト役となり、進行をすすめ、ほとんどの曲でギターやスチールギターを弾き、ミュージシャンの歌を支えていた。

エコー・イン・ザ・キャニオンではボブ・ディランの息子が、昨夜のベルウッド50周年記念コンサートでは、高田渡さんの息子さんが……というところも、この両者が重なって見えた理由かと思う。

 

ベルウッド・レコードが発足したのは1972年。当時は無名でも、いい音楽をつくり歌っている若きミュージシャンたちを発掘し、良質なレコーディング環境を提供し、アルバムを出していった。

レコード会社だから「地域や場所」ではないけど、まぎれもなく、ベルウッドは日本のローレルキャニオンだったんだなと思った。



いま、亡くなった友人・下村誠さん(音楽ライター、ミュージシャン」の本を作ろうとしているのだけど、彼が書いたミュージシャンは50近くいて、中には名前は知ってるけど、ちゃんと聴いたことがない…という人も多かった。その多くが(いや、全部かも)ベルウッド、あるいは、URCからレコードを出している。

 

本への転載をお願いする際、まったく聴いたことがないというのも失礼な気がしていた。YouTubeがあるから、それを聴けばいいようなもんだけど、なんだかそれだとダメな気がしていたとき、ベルウッド50周年記念コンサートが開催されるという情報が出て、「行かなきゃ!」と思って、チケットを申し込んだ。

 

そんな意味もあったのだけど、行って、本当によかった。

演奏される曲は、自分がベルウッドやURCで出した最初の頃の歌、あるいは、すでに亡くなってしまって、この日のコンサートに出演できなかったミュージシャンの歌を歌う人も多かった。

 

でも、ただの、「昔の音楽を演奏して懐かしむ」コンサートではなかったからだ。

バックミュージシャンを務めたのは、高田渡さんの息子さん、高田漣さんと同世代のミュージシャンたちだった。ベルウッドの音楽を聴いて、憧れて、ミュージシャンになったという森山直太朗さんも出演していた。

 

歌は、歌い継がれる。

 

いい歌とは、それは大勢の支持を集めたヒット曲だとか、商業的なヒット曲ではないとか関係なく、そして、誰かが……それが著名なミュージシャンでも、普通のアマチュアミュージシャンでも……誰かが、「歌いたい」と思ってカバーし、歌い継いでいく歌なんだろうな。

昨夜、歌い継がれた歌たちは、きっとずっと残っていく。

個人的には、やっぱり、中川五郎さんが歌った「ミスター・ボー・ジャングル」がよかった。

下村さんはこの曲をライブでよく歌っていた。

 

 

私の頭の中では、五郎さんの声に、下村さんの声が重なって聴こえてきて、泣きそうだった。

あとは、はちみつぱいの「堀の上で」、六文銭の「旅立ちの歌」がよかったな。「旅立ちの歌」をコンサート最後の曲にセットしたというのは、やっぱり、この歌詞があるからだろうと思う。

懐かしむのではなく、これからのことが大事という――。

 

さぁ 今 宇宙に

さぁ 今 未来に

飛んでいけ

 

 

 

追悼 矢吹申彦さん もう1度、お会いしたかったな。。

矢吹申彦さん、亡くなったのですね…。

最近、ふと思い出すことが何度もありました。お元気かなぁ…って。

以前、下北沢の情報誌『しもきた情報』でライターをしていた頃、

「しもきた人インタビュー」というページを担当していて、

矢吹さんにインタビューさせていただいたことがあります。1996年3月号。

 

 

矢吹さん、いい顔をされているでしょう。

写真は私が撮ったものですが、私の腕がいいのではなくて、にじみ出るお人柄、ですね。

気さくで、やさしくて、ダンディで、素敵な方でした。

 

 

東北沢で生まれ育った矢吹さん。

インタビューをしたのは、私が東松原から東北沢に引っ越した頃でした。

ご近所だったんです。

下北沢のタウン誌なので、下北沢に関するエピソードを伺ったのですが、

映画館の話、おもしろかったです。

私が東京に引っ越してきた頃は、確かまだ、あったような…。

 

また、矢吹さんとは、話の合うところがいくつもありました。

たとえば、「下北沢」が「シモキタ」と呼ばれるようになった頃のこと。

街の名前を略して呼ぶようになると、街は変わるという話、とか。

サンチャ、ニコタマ、然り。

「この街をそう呼ぶ人たちの街になったな」と思ったとのことでした。

私は、「シモキタ」と略して言うことはありません。あまり好きじゃないんです。

今までも、今もずっと、「下北沢」と言っています。

インタビューの間、矢吹さんも、必ず「下北沢」と言っていました。

 

それと、下北沢のエネルギーの源は「猥雑さ」であって、

あまり衛生的になってはいけない、という話も。

いま、下北沢がどんどんきれいになってきてる。

数年後には駅前にロータリーもできて、ずいぶん変わるんでしょうね……。

今まで、雑多でエネルギーに満ちていた下北沢が、今度こそ、

街の性格が変わってしまうかもしれないな、と、悲しく思っているのですが、

矢吹さんがお元気だったら、きっと、同じことを思われたような気もします。

 

掲載させていただいたイラスト地図は、矢吹さんが子どもの頃の東北沢~下北沢です。

映画館がいくつもある! この地図を見せていただきながら、

「ここには、こんなものがあってね」などと話してくださいました。

楽しかったなぁ。

 

1度お会いしただけですが、とても印象に残っています。

もう1度、お会いしたかったな。さみしいです。

空の上で、ゆっくりおやすみください。

 

カフェイン離脱日記~私、実は、カフェイン中毒だったらしい~からの脱却 その2

☕9月12日(月)~14日(水)

特に変化なし。夜中に目が覚めなくて、むしろ、快適なくらい。

思えば……コーヒー断ち3日目くらいまでは、身体中の細胞内にまだまだカフェインがたっぷり備蓄されていたのだと思う(;^^A

 

☕9月15日(木)

朝、頭痛と吐き気で目が覚める。脳の形に痛い、と言ったら、想像できるだろうか。脳全体が痛い感じ。さらに、眼球と首筋も痛い。同時に吐き気。

木曜日はいつもなら家で仕事をする日なのだけど、この日はイレギュラーにバイトが入っていた。このままじゃ仕事にならない、どうしよう、コーヒーをやめたことが原因か?……と、検索してみたところ、「カフェイン離脱症状」という言葉が出てきた。

 

たぶん、これだ、と推測。

コーヒーを飲むと、血管が収縮するらしい。今までずーっと、いつも血管が縮まっていたのね。ごめんよ、私の血管……。

それで、私は今、コーヒーを断っているから、これまで収縮していた血管が広がって、それで頭痛が起きているのだとわかった。

 

でも、薬を飲んでいいのかな。けっこう、ひどい頭痛だぞ。へたに薬なんて飲んじゃあ、ダメなんじゃないか……と思ったら、頭痛薬の成分にカフェインが含まれているそうで、それもあって頭痛が治るのだとネット情報に書かれていた。

 

ということは、頭痛薬を飲んでも大丈夫そうだな、と判断し、ミルクティを飲んで、お豆腐をすこし食べて(食欲がなかったので、これが精一杯)、ノーシンを飲んだ。

 

さっきも書いたけど、最初の3日間は、コーヒーを飲むのをやめても、からだの細胞という細胞にカフェインがまだまだ、たっぷり残っていて、その残留カフェインでからだが動いていたんだと思う。それが、3日を過ぎた頃、尽きて、枯渇したんでしょうね。

 

しばらくすると、頭痛がだいぶ治まってきた。

なんとか、バイトに行ったが、夕方帰ってくる頃から、再び頭痛。眼球の痛みもひどくなってきて、目を開けているのがしんどくなってきたので、夕食後、早めに就寝。

 

 

☕9月16日(金)

朝はやはり、頭が痛い。

でも、ミルクティーをいれて、20分くらいかけてゆっくり飲んでいたら……砂浜で、すーっと潮が引くように、痛みがひいていったの。

わかりやす過ぎる(;^^A 

たぶん、カフェインが効いて、血管が収縮して頭痛が緩和されたんだろうけど、コーヒー過剰摂取を断って5日目、からだの中に溜まっていたカフェインは、きっと、無くなったんだろうな。かわいた布に水が染みていくように、カフェインが細胞に染みていったんだろうな。

 

それにしても、この痛みがひいていく感じが、おもしろかった。

こんな感覚は初めてかも。

 

そして、からだの細胞にもカフェインが、いつもよりだいぶ少ないながらも、細胞の隅々まで行き届いたような感じで、シャキっとする。

あぁ、これが、コーヒーを飲んだときの本来の効果なんだね。

私の場合は、一日中コーヒーを飲んでいたから、常に細胞内にカフェインがあって、1杯飲んだからと言って、特に変化を感じられなかったんだろう。

 

カフェインって、すげぇ……でもって、こぇぇ。

 

いや、言葉は悪いけど、そんな気分でした。

 

夕方になってくると、カフェインが枯渇するのか、じわじわと頭痛が戻ってくるので、ここで、ココアを1杯。ココアにも少しカフェインが入っていて、夕方の頭痛ならこの程度カフェイン量でおさまることを確認。

 

 

☕9月17日(土)~20日(火)

朝、起きると、頭が痛いのは同じ。

ミルクティをいれて、20分くらいかけてゆっくり飲むと、すーっと頭痛が治ってくる。

夕方には、ココアを1杯。それ以外は、はちみつを入れたあたたかいレモン水を飲む。ちょっと飽きてきたので、今日、ハーブティを買ってきた。

 

おもしろいのは、日によって、頭痛以外の症状が日替わりのように出現すること。

16日の夕方は右の眼とおでこが痛かった。

17日は、夕方、脳の左半分と、両方の眼が痛かった。夕方、少し疲れて、昼寝。

18日は、肩が凝ってる感じ。

19日は、左肩が凝っていて。左手が少ししびれてる感じ。両目が痛い。

今日20日は、左肩がちょっと凝ってるけど、目の痛みはあまりない。

 

 

というように、頭痛やいくつかの症状はあるけれど、それなのに、からだ本体は元気だという自覚がある。血管も細胞もよろこんでいる気がする。

コーヒーの飲み過ぎで、太い血管から細い血管までみんな、ぎゅーっと縮まっていたのが、コーヒー断ちをしたことで、カフェインから解放されて、わーい!と伸び伸びしてるように感じる。いままで、ホントにごめんよ(笑)、私の細胞たち。

 

それと不思議なことに、低血圧が治ってきている。

頭が痛くて目が覚めた9/15以降、上が115くらい、下が70くらい。ほぼ安定。

 

コーヒーを飲むと血管が収縮するので、血圧が上がる、というのが理屈。

でも、コーヒーをやめたら、いつも100を切っていた血圧があがってきた。

よほど、血管も細胞も、カフェインに侵されていたんだな……。

カフェインが抜けて、正しい状態に戻っているのだと思う。

長年、悩まされてきた低血圧。

体調が悪くなり始めた6月頃から、毎日計って、気圧や天気などメモして、原因を探っていたけど、まったくわからなかった……のが、コーヒーをやめたら、あっさり復調。

カフェイン、恐っ。

 

カフェイン離脱症状は、個人差はあるものの、最大で3週間くらい続くらしい。

来月になれば、落ち着くかな。

どんなふうにからだが戻っていくんだろう。

すっごく若返っちゃったりして(笑)。ふふ。楽しみだよ(^^)。

 

カフェイン離脱日記~私、実は、カフェイン中毒だったらしい~からの脱却 その1

カフェイン離脱って、何?と思われると思いますが、実は、9/12(月)から、コーヒー断ちをしています。今日で9日目。4日目の9/15(木)から、頭痛や吐き気、動悸など、さまざまな「カフェイン離脱症状」と呼ばれる症状が出ています。

 

カフェインの過剰摂取によって、からだにダメージがくるという自覚はまったくなくて、でも、ここ数年……特に、今年に入ってから……の、さらに、3月頃から、調子のよくない日が続いていました。

どこが、どう、調子が悪いというのではないのだけど、からだがだるい、疲れがとれない、うまく眠れない、集中できない……など。

しんどかったのは低血圧(平均すると、上が98.下が65くらい)。時に、ドーンと下がって、上が92、下が56とか。そうなると、座っているのもしんどくなって、横になる感じ。

 

特に、この2~3か月は、身体中の「細胞が劣化している」という自覚がありました。

でも、「年、とったなぁ~」という感覚ではなくて、「細胞が劣化してる」という漠然とした自覚。脳細胞も劣化して、働きが悪くなっているという自覚……。

 

でも、家のこと、家族のこともあるし、仕事もあるし、締め切りもあったりする。

そうなると、シャキっとしなきゃと思うので、コーヒーに手が伸びる。もともと、コーヒーが好き……というか、コーヒー以外の飲み物があまり好きではないこともあって、どんどん、コーヒーばかり飲む生活になっていました。1日に6杯とか7杯とか。。。

仕事が詰まってきて、疲れがたまってくると、さらに、レッドブルとか飲んじゃったりして。チェーンスモーカーならぬ、チェーンカフェイン。もう、ひどい状態だったと思います。

 

でも、コーヒーが悪いとは思っていなかった……。

運命の日は9/11の日曜日。

SNSで、コーヒーの過剰摂取による健康被害をまとめたレポートが流れてきて、頭痛や手の震え、心拍数の増加、動悸、認知機能の低下、不眠、疲れやすい……などなど。

 

え、思いあたることばっかりじゃん……「あ、私、カフェイン中毒なんだ」

 

やっと自覚しました。こりゃ、いかん。このまま、コーヒーの過剰摂取を続けたら、からだの細胞も脳細胞もダメにしてしまう。

カフェイン廃人になってしまう。

ものすごい危機感でしたが、逆に、最近の体調不良の原因がわかったようで、腑に落ちた。

 

「コーヒー断ちしよう。そして、カフェインが身体から抜けて、正しい状態に戻ったら、あらためて、大好きなコーヒー、適量を飲むようにしよう」

 

そう決めて、翌9/12から、コーヒー断ち。

急にやめるのはマズいかなと思って、朝、ミルクティを1杯だけ飲むことにしました。

 

さぁ、このあとは、カフェイン離脱日記 その2に続く。

どんどんからだが変化していきます。

人のからだって、おもしろいよー。

 

素敵な声をありがとう。小林清志さん。どうぞ安らかに。。

小林清志さん、大好きでした。
子どもの頃からアニメは好きでしたが、特に小学生の終わり頃から中学・高校にかけて、夢中になって観ていたのは、「ルパン三世」「宇宙戦艦ヤマト」「キャプテンハーロック」。
人の声ってなんてすごいだろう! この3つのアニメの声優さんたち、みんな大好きでしたが、特に好きだったのが、次元大介役の小林清志さんと、石川五右エ門・キャプテンハーロック役の井上真樹夫さんです。
ふたりとも、亡くなってしまった…。
 
 アニメージュ」でライターをしていた頃、東映動画発足40周年のパーティがあって、アニメージュの編集長と一緒に取材にでかけたときのこと。
さまざまな方にごあいさつをして回りましたが、その途中、遠くのほうに、小林清志さんを見つけていました。でも、編集長がなかなか声優さんたちのところに行ってくれない…(;^^A 自分から行くわけにもいかないし、視界の端に小林清志さんが立っている姿をとらえつつ、でも、仕事で来ているのだから……と思って、淡々とご挨拶したり、お話を伺ったり。
そのうちようやく、編集長が永井一郎さんたち数人の声優さんたちのところに行ってくれて、そこに小林清志さんもいらして、ひとこと、ごあいさつできました。もう、忘れませんよ。ビデオを再生できるように、覚えています。
永井一郎さんとは、少しお話をしました。
でも、小林清志さんとは、緊張してしまって、ただ名前を言いあって、よろしくお願いします程度の言葉しか交わせなかった。
次元の雰囲気にも似た感じの、静かで、とても素敵な方でした。
 
あぁ、でももう、いなくなっちゃったんですねぇ……泣きそうです。
ということで、私が夢中になって観ていた頃の「ルパン三世」のエンディングテーマ。
これをかけて、小林清志さんへの追悼としたいと思います。
 
素敵な声をありがとう。いつまでも大好きです。
 
 
 

『紛争地の看護師』著者・白川さんのトークイベントで感じた大切なこと

6月11日(土)銀座のレストラン・バー「cafe garage Howrin'」。弁護士でロックミュージシャン・島昭宏さんが主催する白川優子さん(国境なき医師団の看護師)のトークイベントが終わったとき、白川さんの話と、そこから想起された記憶とで、私の頭はぐるぐるとうず巻いて、少々、混乱していた――。

 

白川さんはまだ小学生の低学年だった頃、国境なき医師団をとりあつかったドキュメンタリーをテレビで観て、こんな仕事があるんだと感動し、憧れたそうだ。そこから紆余曲折ありつつも、30歳を過ぎてから、本当に自分がやりたいことはコレだと決意して加入した話や、国境なき医師団の活動そのものや組織運営の話……などなど、興味深いトークが続いた。

でもやっぱり、一番、「あぁ、そうか。やっぱりそうなんだ」と心に刺さったのが、「報道されていることと、現実に起きていることは違う」という話。

 

報道されていることと、現実に起きていることは違う。

 

紛争地で実際に目にし、知っている白川さんだからこその「伝えなければならない」という想い。

あくまでも看護師であり、目の前で傷つき、倒れている人の命を救うこと。自分がやるべき最優先はこっち。

でも「伝えなければならない」という強い気持ちが実現したのが、白川さんの著書、『紛争地の看護師』と『紛争地のポートレート』なのだという。

 

爆撃で体の一部が吹き飛んだ人。体中が傷つき、血だらけの人。

食べものや水もなく弱っている人。

粉々に壊された建物、橋、重要施設。。

現実に起きていることは、テレビや新聞などの報道で私たちが目にするものや、そこから私たちが想像できることなんて、くらべものにならないほど重いのだと、白川さんのこの言葉から再認識する。

そして、白川さんが一番伝えたいことは、「戦争だけは、本当にやってはいけない」ということ。

 

世界のそうした紛争地域の様子は日本の報道でも流れるが、そうした映像は、おそらく、比較的軽症の人なんだろうと思うし、戦況も比較的悲惨ではない場面ないのかもしれない。(それでも十分に酷い状況だけれど)

 

話を聴きながら、東日本大震災のことを思い出していた。

夫の実家は宮城県多賀城市というところで、津波被害のあった地域だ。多賀城市のあたりの沿岸部は海岸ではなく港で、物流倉庫や大きな量販店などが立ち並んでいる。津波が建物にぶつかって威力がそがれたせいか、住宅街に波が到達したときには、2mほどの高さがあったものの、波のチカラはだいぶ低下していて、建物が根こそぎ流されるといった被害は受けなかった。

一戸建て住宅の塀や門は壊れたり、物置のような軽いもの、あるいは車などは持っていかれたけれど、そういう意味では、大きな被害ではなかった。

夫実家はアパートの2階で、ぎりぎり、浸水の被害にもあわなかった。

ということもあり、体育館に避難していた義父も、電気などのライフラインが復活して、アパートそのものの安全性が確認されるとすぐに実家に戻った。8月になる前には帰っていたと思う。

 

夫は震災から約2か月後の5月の連休に一度帰っていたが、私と娘は遠慮して、でも、夏休みには帰省することができた。

その程度には落ち着いてきていたからだが、義父が話してくれることと言ったら、「揺れはすごかったが、家の中のものはちゃんと固定してあったから、みんな倒れなかった」とか、手先が器用な義父は、避難所で、みんなが生活しやすいようにと工夫して、手作りでいろいろ作っていたらしく、「頼りにされて、ちょっとした人気者だったんだ(笑)」とか……。

あるいは、ガスの修理は大阪ガスの人が来てくれたそうで、「遠くから来てくれて、本当にありがたかった」とか、そういうことだけだった。

 

本当はもっとつらい思いもしただろうけど、あえて聞くのも……と思って、こちらからは特に聞くことはなかった。

 

が、震災から2年以上がすぎた2013年の夏休み。帰省して、東京に帰るとき、いつものように、駅まで義父に車で送ってもらう途中、いつも通る道、多賀城市を流れる川の横を通っていたとき、義父が、

「あの橋に人がいっぱい引っ掛かっててね……」

とつぶやいたのだ。誰に言うともない感じで、ぽつりと。

 

その短い言葉。その奥にある震災の記憶。でも、たったそのひと言を口にするのに、2年以上の歳月が必要だったのだと瞬時に悟った。

 

何が言いたいかというと、震災の頃、震災の様子や津波の威力、傷つき、立ち尽くす人などの映像があれだけ流れたけれど、義父がやっと口にしたような映像が流れたことはなかった。少なくとも、日本では。

災害時の映像には、報道の限界がある、ということだ。

ましてや、それが戦争となれば、もっと限界や規制があったり、報道する人の命にも影響するかもしれない。伝わってくるものは、氷山の一角、ほんの表面的なものだと知っておく必要はあると思った。

 

話が少しそれてしまったけど、じゃあ、そういう話を伝え聞いて、どうするのか。

ウクライナのことを考えてみる。タリバン政権下のアフガニスタン。凄まじい独立戦争で独立を勝ち取ったものの、あまりに凄惨な状況にありすぎた東ティモールのことも……。

国同士のことではなくとも、日々の生活や仕事にだって、理不尽なことがたくさん起きている日本のことも。

 

わー、何もできないじゃん。

 

こうしたことを考えはじめると、無力感があったり、あきらめの気持ちも出てきたりする。あれもこれもなんて無理…とか。

 

また、たとえば、戦争だけは絶対にしてはいけない、と私は思うし、そういう人は多いと思う反面、武力で推し進めるのが正義だと思う人もいるだろう、と思う。

あるいは身近な問題としてなら、地域の再開発。企画の発端は住民が暮らしやすいようにという理想だったりしても、住民の中には今まで通りがいいと思う人もいるだろうし。

 

いろいろな考えの人がいて、みんなが同じ方向を向けるなんていうことは、ありえなくて、でもそういう多様性があるから、人類は破滅せずに存続してきたのだろう……とも思ったりして、なんの答えも出ないんだけど。

人類が、みんなが同じ意見を持つ種類だったら、どこかのタイミングで、とっくに破滅してるんだろうなぁと思う。みんなで戦争に向かっちゃったりして。

 

書いていたら、また、頭ぐるぐるしてきたぞ。

 

いろいろなことが起きている。苦しむ人がいる。

この地球上にそうした事はたくさんあって、それを伝えてくれる人がいたら、キャッチできる心を持っていること。全部は無理だから、なにか自分が心を動かされたことで、いいと思う。

何かをキャッチしたら、考えること。

身近な出来事であれば、自分や、自分の大切な人、まわりにいる人が、そうした物事の渦中に巻き込まれることもあるかもしれない。。。

その中で、なにか自分が行動できることがあったら、行動したり、実践してみること。

そこに尽きるんだろうか。

 

 

トークイベントからもう1週間も経ってしまった(;^^A

考え出すとぐるぐるしてくるけれど、でも、ふと思い出すのは、白川さんの笑顔。

悲惨で深刻な話も多かった。楽しい話題もあったけれど、全体とすれば真面目な問題だ。

でも、今、ふりかえってみると、彼女はどの話の時も、眉間にシワを寄せていなかった。優しく、おだやかな表情。あるいは、話し終わると、いつも笑顔だった。

 

それって、強さだなぁ、と思う。

凄惨な状況を知り、辛いこと、悲しい思い、かすかな希望。

そういうことを知っている上での笑顔。

 

私には同じ笑顔はできないけれど、でも、私も、まずは笑顔でいようと思う。

そして考える。

 

 

生誕100年特撮美術監督井上泰幸展

スケッチ、計測、ち密な計算、綿密な下調べ、そこにプラス、楽しさ、夢✨
そうしたものに基づいて作られた街並みや地形は、どんなに優れた最新の映像技術より、ずっとリアルに感じた。
映画を観る人には見えない部分での努力と夢の量が半端ない。
井上さんがのこしたメモやスケッチ、台本の書き込み等も資料として一級品だけど、この、心構えの部分。これがズシリと心に落ちた。